チャーハンが店で食べると高いのはなぜ?

 こんにちは

 

 今日は昼飯にチャーハンを作って食べたので、少し思ったことを書きます。

 

 まず、チャーハンの特徴について。材料は基本的に、ごはん、卵、肉、ネギ(玉ねぎ、人参)など、種類は少なめ、量自体はそんなに必要でない、かつ調味料の選択を合わせるとかなり個人の自由度が高い。さらに、調理の手間も技術も、それほど必要としない。

 よって、チャーハンは金銭的にも時間的にもコスパがよく、かつ自由度の高さと手軽さゆえに「シンプルで奥深い料理」のように思われます。

 皆さんもこれまで様々なチャーハンを家で、中華飯店で、またラーメン屋で食べてきたのではないでしょうか。ちなみに筆者は、高校時代、部活の仲間としばしば帰りに皆でラーメンを食べに行っていましたが、ラーメンが嫌いな私は一人だけチャーハンを注文して食べてました。ラーメン屋にあるラーメン以外のメニューなんてチャーハンと餃子くらいなもので、餃子は大抵横取りされる運命にあったので消去法でチャーハンしか頼めなかったのです。

 ………話を元に戻します。チャーハンも多種多様でこってりして油っぽいものから、さっぱりしっとりして米の旨味が残っているもの、パラパラでお菓子のように食べられるものなど味覚だけとっても種類がこれだけあって、インドネシアナシゴレンのようなものも「炒飯」(いためめし)として含めるなら、ワールドワイドなエスニック料理といえるかも??しれません。

 今や全国どこにでも出かけたってチャーハンのない食堂はないといえるかもしれません。

 しかし、店で食うチャーハンはわりと高いのです。自炊で作る場合と具体的な金額を比べるまでもありません。圧倒的に店の方が高いのです。

 もちろん、店が利益を出すためとか、料理人の技術とサービスへの対価が含まれているのは経済学的知見に立ってまで議論するまでもないことです。

 ここで、私が取り上げたいのは「家庭でもチャーハンは簡単に作れる、しかし、なぜ人々は高い金を払ってまで店でチャーハンを食べようとするのか」という問題です。

 実は、私がチャーハンを本格的に作り始めたのは一週間ほどまえで、テフロン加工のない鉄フライパンを買ってからでした。これで、遠慮なく高い火力をふるっておいしいチャーハンが作れるはずだった。事実、油の量を増やしたことでぐっと私の理想の味に

仕上げることができた。

 しかし、ここで大きな問題が発生した。

 なにしろ買ったばかりの鉄フライパンは食材がこびりつきやすいばかりでなく、手入れは使った後、迅速にお湯と鉄たわしを使ってゴシゴシとその汚れを落とし、さらに水分を抜くために空焼き(フライパンだけを加熱すること)をしなくてはならない。鉄フライパンが育ってないとこの作業は非常な困難を極め、サボればすぐにさびてしまう。

鉄フライパンは老齢の技術者のようなやつで、一定の高クオリティを保証してくれるが、そのために介護したり、適当に話しかけてご機嫌を伺ってやらねばならない曲者なのだ。そんな鉄フライパンに向かって「今日は良い天気ですね」などと言いながら、たわしでゴシゴシとやっているうちに肝心のチャーハンが冷めてしまう。

 いや、多少は冷めてもチャーハンはうまいのだ。しかし、思うにチャーハンの醍醐味とは、アツアツの出来立てを金魚が餌を食べるようにして口をハフハフをさせながら舌鼓を打つことなのである。家庭で作るチャーハンというのは、作り手にとって、彼らが鉄フライパンの奴隷である限りその醍醐味を十分に満たすことはできない。

 チャーハンは、「人に作ってもらう」料理なのである。それで初めて私たちは真の意味で「チャーハンを食べた」と謂えるのである。

 そう、チャーハンが店で比較的高値なのはこういった理由によるもので、一度鉄フライパンに隷属した者でしかわからない。私たちはそれなりの対価を支払い、主人の鉄フライパンから市民権を獲得することによって真のチャーハンに到達するのである。

 そうと分かっていながら、私は金がないから、鉄フライパンを要介護者リストから取り除くべく、明日も必死に鍋を育て、ゴシゴシと彼の老廃物を落としているのだろう。

 

 

 

ご挨拶

 この記事をご覧くださり、ありがとうございます。

 

 しがない男子大学生(一年)の日々の雑記です。

 

 日常を過ごす中で感じた些細なこと、新しく発見したことなどを素直にここに残していくつもりです。

 

 拙い文章で恐縮ですが、筆者も微力ながら読者様にお愉しみ頂けるような文章を書けるよう努力いたしますので、どうぞ温かい目でみてやってください。